改めて、Bourdieuのhabitus

鎌田(實 )先生の『言葉で治療する』の中に、
注射針をさす前に、
ひとこと声をかけるのとそうでないのとでは、
患者さんの受ける印象が全く異なる
というようなことが書かれていて、
確かに、そうかも... と思っていたら、

先日、曽野(綾子)さんが新聞のコラムに、
注射の前の声かけや、
美容院で洗髪中に湯加減をきかれるのが
面倒でたまらない、
という内容のことをお書きになっていて、
思わず笑ってしまいました。

少し驚いたのは、曽野さんが、
普通は**なので、というような表現をされていたことです。
多くの人が足を踏み入れないような場所にもいらして、
「普通」が通用しない世界をよくご存じのはずなのに。

久々に、ブルデューのhabitusを思い出しました。

人は誰でも、生まれ育った環境や
これまでの人生経験によって、
「当たり前」の概念が形成されます。

意識的に獲得したり、
敢えて変えたりしたことならともかく、
無意識に蓄積されるので、
普段は、全く自覚がなく、
自分と異なるhabitusに出会って初めて、
自分の「当たり前」が、
他の人々にとっては必ずしもそうでない、
ということを認識するわけです。

良かれと思ってしたことが、
かえって相手を苦しめてしまうことがあるのも、
結局、「当たり前」が異なるからですよね。

ただ、コアの部分、
たとえば、パッチ・アダムスの

「愛や笑いは、治療法のひとつでなく、
医療の根本に流れるべきもの」

のような考えは、誰にとっても、
あのCMのおばあちゃんのように、
「そんなん、当たり前」であってほしいものです。